心の器が育つということ
〜3つの記事を通して伝えたかったこと〜
ここまで書いてきたこと
これまで2回にわたって、白黒つけたくなる心の動きについて書いてきました。
1回目は、決まらない状態が苦しくて、心が急いでどちらかに答えを置こうとすること。
その反応が、人間関係や、自分への厳しさにつながっていくことを書きました。
2回目は、その答えを急がず、
「こんな気持ちもある」
「あんな気持ちもある」
と、どちらも抱えたまま置いておく力についてお話ししました。
今回は、その続きです。
曖昧さを抱えられることが、なぜ「心の器」や「自己受容」とつながっていくのか。
そのことについて、最後に少し綴ってみたいと思います。
自己受容とは、感じたことを認めること
自己受容とは、自分の中に湧いてきた感情に、良い悪いの判断をせず、
「私は今、そう感じているんだね」
と、そのまま認めることです。
ここで大切なのは、感じたことを認めることと、その感情のまま行動することは別だということです。
腹が立ったと感じることと、その怒りのまま誰かを傷つけることは違います。
「もう無理だ」と感じることと、本当にすべてを投げ出すことも違います。
感じたことには、「いていい」と言ってあげながら、そのあと、どう動くかは別に考えていく。
こうした小さな積み重ねが、少しずつ自己受容を育てていきます。
心の器とは、揺れる気持ちを抱えていられる場所
悲しい。
腹が立つ。
不安になる。
そうした気持ちを、そのままとどめておくことが苦しくなると、心は早く答えを出そうとします。
白黒どちらかにすぐ決めてしまうのは、心の器がどこかで傷ついていたり、うまく閉じられない状態になっているからかもしれません。

湧いてきた感情をとどめて置けずに、感情のままに行動してしまったり、姿を変えて外に漏れ出てしまうこともあります。
悲しかったはずの気持ちが、怒りになって出てしまう。
がっかりした気持ちが、誰かを責める言葉になって出てしまう。
矛盾する気持ちを、そのまま内側にとどめておくことができないとき、心はどちらか一方に、急いで決着をつけようとします。
「全部、自分が悪い。」
「相手が悪い。」
どちらかに決めてしまえば、一度は迷わずに済むからです。
でも、その答えが、本当にすべてとは限りません。
これは、心が弱いということではありません。
どんな人の心も、生きてきた中で、大なり小なり傷ついたり、ひびが入ったりしながら今の形になっています。
心の器は、人との関わりの中でも育っていく
心についた傷は、時間がたてば自然に消えていくものばかりではありません。
安心できる誰かとの関わりの中で、少しずつ癒えていく傷もあります。
揺れている気持ちを、そのまま聞いてもらえたこと。
責められずに受け止めてもらえたこと。
そんな経験は、心の器を少しずつ育ててくれます。
そして、一人でいる時間にもできることがあります。
「そう感じているんだね」
と、自分自身の気持ちを、そのまま受け止めてあげることです。
答えを急がずに、その日を過ごせた。
決めつけそうになったとき、ほんの少し立ち止まれた。
そんな出来事も、自分で自分の心を受け止められた時間の一つです。
そうした積み重ねが、少しずつ心の器を丈夫にしていきます。

心の器を整えていくということ
長年続いてきた心のクセは、自分では気づきにくいものです。
気づいても、同じところを何度もぐるぐる回ってしまうこともあります。
そんなときは、誰かと一緒に見つめていくことで、少しずつ整理できることもあります。
90分の個別相談では、今の気持ちを無理にまとめなくても大丈夫です。
絡まった糸を少しずつほどくように、一緒に心を見つめていきます。
詳しくは、個別相談のページからご覧いただけます。
おわりに
このシリーズでは、「白黒つけたくなる心」「曖昧さを抱えていられる力」、そして「心の器が育つということ」について、3回にわたって綴ってきました。
白でも黒でもない気持ちを、すぐにどちらかに決めなくてもいい。
そんな時間が少しずつ増えていくと、心は以前よりも揺れにくくなっていきます。
それは、自分を甘やかすことではなく、自分の心を大切に扱えるようになっていくことです。
その積み重ねが、自己受容につながっていきます。
必要なときに、またこの3つの記事を読み返していただけたらうれしく思います。
ここは、白黒つけなくていい場所です。
自分を責めてしまう目線を、少しゆるめられる心の休憩所。
急いで答えを出さなくても大丈夫です。
その曖昧さを、一緒にゆっくり抱えていけたらと思います。


